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zoom RSS 岐阜県旧黒川村、「乙女の碑」を訪れました

<<   作成日時 : 2018/09/20 15:58   >>

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美濃加茂から国道41号線を北へ、飛騨川に沿って川に沿った走りやすい道を40分、白川町。ここまでは、JR高山本線も並行して走っています。

白川から飛騨川から外れて東へ、「黒川」という標識に従って走ります。
2車線の部分と、対向車が来たら交換場所に入って退避、退避するとお互いに手をあげてあいさつ、も数回。
白川から30分ぐらいでしょうか。谷間が開けた、黒川。
ちょっとした町で、小学校、中学校、郵便局などもあります
特産の白川茶の工場や、ヒノキや杉でしょうか、木工の工場もあります。

現在の名称は、岐阜県加茂郡白川町黒川。高台から集落を撮りました。

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佐久良太(さくらだ)神社。町の北側の南向き斜面に鎮座しています。

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中央が本殿、左に樹齢500年とかの杉の大木。右に、いくつかの慰霊碑。
戦死者の慰霊碑に並んで、満州開拓の開拓者の慰霊碑。

コトバンクより、「満州開拓団

 1931年の満州事変で中国東北部を勢力下に置いた日本軍は、翌32年、傀儡(かいらい)政権の「満州国」を建国。敗戦に至るまで農家など20万人以上を満州に移住させた。困窮した農家を救済するほか、緊張関係にあった旧ソ連との有事に備える狙いがあった

…黒川村は、昭和16年(1941)以降、約600人が現在の中国吉林省の陶頼昭に入植したということです。

昭和20年、知っての通り敗戦。
ともない、大陸の日本人は帰国せざるを得なくなった。
朝日新聞デジタル(2018年8月15日)の記載から、

 敗戦後、旧日本軍に置き去りにされ、現地住民らによる襲撃や略奪を受け、隣の開拓団は集団自決した。

 当事者の証言によると、黒川開拓団は幹部が近くの旧ソ連軍部隊に治安維持を依頼。17〜21歳の未婚女性15人前後を「接待」に出した。45年9月から11月ごろまで続き、一時期、中国兵の相手もさせたという。


…上引用の朝日新聞の記事タイトルは、「開拓団の「性接待」告白 「なかったことにできない」 」です。
私は、8月15日放送の、TBS系列のNEWS23、で黒川村のことは知りました。
そこで出てきたのが、「乙女の碑

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開拓団自体の慰霊碑は、確か昭和のものでしたか、建てられています。
600人といいますが、うち200人は日本に戻ることなくおおむね満州で亡くなった。

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それでも、黒川の開拓団は他の開拓団よりも、生きて帰ってきた割合は高かった、とテレビでは触れられていました。
少女たちをソ連兵の性の相手に差し出したことで、食料を得、中国人や一般ソ連兵からの暴行や略奪が少なかった、かもしれません。だから良かったとはいえません。
乙女の碑が建てられたのは、戦後70年という時間が立ち、当事者や関係者が声をあげるようになった。
そして、周囲もこの事実は知っていた。悔いる気持ちはあった。
から、碑を建立したのでしょうか。その辺は私にはわかりません。

テレビでは福岡県にあった、「二日市療養所」も大きく取り上げていました。
大陸から帰国した女性の少なからずが、妊娠して帰ってきた。中絶のための施設です。
個人的に、去年の2月におとずれています。
そこにも、お地蔵様がみえました

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